人は二度死ぬ [歴史]
またしても偶然の一致から記事を書かせていただきます。昨日のブログのある方へのコメントとして「人は二度死ぬ」ことを書きました。そして本日メールマガジンをチェックしたところ、その記事の中に「人は二度死ぬ」というタイトルと内容があり、驚きました
吉田松陰先生の歴史に学び、ああ人は二度死ぬんだと思ったばかりだったのです。一度目は肉体の死(安政6年10月27日、陽暦1859年11月21日処刑される)、その数年後志士たちが維新に向け動き始めるのです。松下村塾の門下生第一号の久坂玄瑞は17歳で入門、20歳の時に松陰先生の死、その後25歳で禁門の変で自刃。久坂玄瑞にとってはそこで松陰先生と共に死を迎えることとなるのでしょう。
しかし、松陰先生死後約150年経つ今も「吉田松陰」は我々の中に脈々と生きています。(私の中では復活したという方が良いのですが)私が死ぬ時に私の中の吉田松陰も死ぬのでしょう。ということは彼はまだまだ生き続けるのです。
魂や残した言葉は永遠のような氣がいたします。
話は変りますが、私の祖父母4人はもう亡くなっています。しかし、ふとした時に思い出したりします。まだまだ生きているのです。思い出す度に何か勇気や応援のメッセージをもらうような氣もします。永遠につながる命や魂。
昨日訪れた松陰先生のお墓には「二十一回猛士墓」と刻まれていました。受講したセミナーは第二十一回・・・というタイトル。主催者側も閉会の挨拶の際、偶然とおっしゃっておられました。初めて参加した私にとっては決して偶然ではなかった。
私の記憶の中にあるものは、私がいなくなるまで存在し続けるということですね。記憶エネルギーという言葉もあります。ある場所に行くと思い出が蘇ることを言います。強い記憶は一生忘れないですからね。
by うるとらまん (2006-10-10 16:56)
ものすごいですこれは。偶然ではないです、はるかぜさんの直感力というものを強く感じています。びっくりですねほんとに。
by オオタ (2006-10-10 19:56)
以前から、数字にかんしてとくに、はるかぜさんは、偶然とおもわれない一致がありますね、ほんとに興味深い。
by オオタ (2006-10-10 19:57)
人は二度死ぬの話。
貴殿もご存知のH中電業のH中さん夫婦、息子さんは鬼瓦権造の写真の中にデーモン小暮の格好をしているT雄君。
彼の葬式は本人の意思により、花は菊ではなく真っ赤なバラ。
出棺の音楽は蛍の光ではなくサザンの旅姿六人衆。
そんなアホさ加減に今でも仲間が集まると彼の話題は毎回出る。
彼は間違いなく、我々の心の中に生きている。
わしも末代まで長生きしようかの。
by (2006-10-11 00:47)
他にも偶然の一致が・・・研修期間中にあるソーシャルネット内で全く知らない熊本の方からメールが届いていた。熊本で幕末の維新の志士たちの勉強をされておられるとのこと。私のプロフィールには全くそのような事は書いていなかったのに「ロハス」というキーワードからたどり着いたとのこと。不思議な事はあるもんです。他にもあるのですがこの辺で・・・何かが呼んでいるのでしょうか?
みなさんコメントありがとうございました。
by はるかぜ (2006-10-11 12:16)