気ではなく氣 [精神世界]
私たちは「氣」というものを見えないけど持っている。
氣持ちである。
大いなる内なるエネルギーであり、パワーの源である。
相手を思いやる氣持ち。
傷ついた自分を思いやる氣持ち。
自分のことなのに客観視できる自分。
「氣」というエネルギー(POWER)は、自分というものを通してではあるが、やはり客観的なところからやってくるのかもしれない。
自分のことではなく、他の人のために役に立ちたい!と思った時とか。
人は皆自分中心で生きているが、「ふぅっと」自分ではない誰かのために役に立ちたいと思った瞬間に「氣」(エネルギー・パワー)は生まれるのかもしれない。
常に「俺が俺が」と思っているとき(我をはっている時)は誰も振り向いてくれないが、
私以外の人を思っている時は、我(が)を忘れているから自分をも客観視できているのである。
そんな時、「氣」エネルギーは発せられるのかもしれない。
我を忘れて(無我)、何か他の存在に集中(夢中)した時、まさに無我夢中になれた時、天地の大いなるエネルギーを受け、その末端の私という存在を通して「氣」は発せられるのではないだろうか?
先日の映画「ベストキッド」に出てくる「氣」の話から想像してみた・・・。