SSブログ

10年ぶりにしめ縄作りに参加 [社会]

昨日、約10年ぶりに地元の神社のしめ縄作りに参加させていただいた。下の写真は10年前のものを再度掲載させていただくのだが、もうお亡くなりになられた方も居られる。昨日のお話にも出てくるのだが、「わしらぁも、いつまで出来るのかわからんから、出来る限りは参加したい!」とのことでほとんどが70代の方だった。約100世帯ぐらいある集落の中で、15名が参加しておられた。私が一番若いだろうなぁ・・・と思って参加したのだが、小学校に通う娘さんをお持ちの若い夫婦も参加しておられたのが嬉しかった。ご老人たちも私たちのような若者が参加するのが嬉しい様子で、このうような伝統文化を次の世代に繋げていってもらいたいとのこと。私が今年初めて参加を呼び掛けるチラシを父に代わって作成したのだが、「来年はこう作って欲しい!」とか「こういう言葉を入れるともっと参加者も増えるのでは?」とのこと。具体的には(来年の為にメモとして残しておく)氏子の皆さまへ~という呼び掛けだと・・・「私には関係ない!」となるから「○○地区お住まいの皆さまへ」と広く全員が対象だという呼び掛け(実際に神社の清掃活動には数十人がボランティアで集まる)、タイトルに「しめ縄作り」と書くと、「私には出来ない」から参加しない!となるので、「神社の新年を迎える準備」とか誰でも出来るから参加に意義があると感じてもらえる・・・などなど。父の作成する文章はさすが元公務員!というぐらい杓子定規のお堅い内容だから、神社を守る重要な作業も先細りが目に見えている。しめ縄作りだけでなく、年末年始のライトアップの電球など、地域に住む人もその荘厳な美しさの恩恵は受けて感じているはずなので、誰かがやらなくてはいけない、何か簡単なことでも出来ることをお返ししたい、とか感じてもらいたい。地域に無事大過なく過ごせるのも、神社のご加護のお陰であるとまで思っていたのは昭和までの時代なのだろうか?平成も来年で終わってしまうが、その平成まで続いてきたしめ縄作り。これを次の世の中まで繋いでいきたい!と体がヨボヨボの父と共に参加して感じた次第です。

5907109.jpg5907111.jpg5907115.jpg

5907120.jpg5907123.jpg

5907127.jpg

5907130.jpg

ご参考までに、この神社のご祭神でもある「菅原道真」公のお話を私が過去に作って地域の子供たちに披露した紙芝居の内容(文章)を貼り付けておきます。後世に残す意味でも、今度、絵も併せて公開したいなぁ・・・

学問のかみさま
~菅原道真の話
 日本に約8万ほどある神社のうち、学問の神様と信仰される菅原道真公を祀る天満宮(または天神さまとも言う)は、なんと1万2千もの数があります。それだけ尊敬され大事にされた菅原道真公がこの地に訪れられたお話です。
(右大臣)
今から千年以上も前の平安という時代。
 菅原道真は、26歳で官吏登用試験(今で言う国家試験)に合格し、文章博士(大学の先生)というお仕事をしていました。時の天皇、宇多天皇に信頼をされて、当時、藤原という人たちが政治を握っていた中で、天皇は藤原氏を抑えようとして道真を手厚く扱い、道真は特別な出世をしました。
 次の醍醐天皇の時には、右大臣(今の文部科学大臣)となり天皇を補佐し助けました。
 また、それまで唐(今の中国)から文化を取り入れていましたが、お金をかけて唐から学ぶより、もっと日本の文化を深めようということで、それまで行ってきた遣唐使を止めるなどして国風文化と言われる日本独自の文化が創られていきました。
(左遷)
 しかし、その賢い働きぶりが面白くない藤原時平たちは、延喜(えんぎ)元年(901年)、菅原道真をおとしいれるために、ありもしないことを天皇に告げ、道真のことを悪くいいました。天皇をそむいたという疑いをかけられた道真は、京の都から今の福岡県の大宰府に左遷、それまでの右大臣という高い位から低い位に落とされました。
 無罪でありながら道真は、その命令を受け入れ、また、人を恨んだり悪く言うことはありませんでした。
(船で九州へ)
 10月、京の都から瀬戸内海の海の道を通って九州へ向かった道真の一行は、2月の寒い頃、暴風に遭い、今日皆さんが通られたこの辺りに非難されました。
 見るからに位の高いお着物やお姿に、この辺りに住む漁師たちがお迎えをしました。
 しかし、お着物を汚さないようにする敷物がなく、船の網を持ち寄って丸い円座を作って道真公をもてなしました。
 道真公は暴風が過ぎさった後も、この地にしばらく滞在され、書を書きとめたり、近くを歩いたりなさいました。
(別れ)
 そして別れの日、漁師たちに「大変世話になった。この恩は忘れない。私がいつまでもこの地を居て守ってあげよう。そして3年3ヵ月後ここを掘りなさい」と言って再び九州へ向け出発されました。
 それ以後この地域は、道真公が「居て守る」と言われたことにより居守(いもり)と呼ばれるようになりました。
(山の上にて祈り)
 その後、道真公は大宰府にお着きになりましたが、二年後には病気で亡くなられました。
 ここで有名な菅原道真公の和歌を紹介します。
心だに 誠の道に かないなば 祈らずとても 神や守らむ
  
東風吹かば においおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ
 これは、自分が京を離れる際、梅の木に向かい、自分が居なくても いつものように 東からの春の風が吹けば 春と気付いてちゃんと咲いて美しい香りを漂わせてくれよという願いを込めた歌です。
 他にも 飛び梅伝説というのもあり、道真の死んだ後、京の都から空を飛び大宰府に梅が飛んできた話も残されています。
 また、お隣の防府では道真が亡くなった当日、空が紫色に輝いて世話になった人に自分の死を知らせてくれたという話もあります。
(紫の空)
 道真の死んだ後、道真を悪く言って九州にやった藤原時平が死んだのをはじめ、藤原時平ゆかりの人が次々と死に、大雨、雷などが相次いだため、世の中の人々は、道真の怒りによるものだと恐れました。
 天皇は、九州へ追いやった命令を破り捨て、道真の名誉は元に戻りました。藤原たちは道真の怒りを鎮め、守ってもらおうとして菅原家の家を作ったり、助けたりしました。
 道真が死んでから84年後の永延元年(987)、一条天皇がお祭りをされる時、北野天満宮天神という神名(神の名前)が定まりました。道真公は学問・芸術の神として、そして人を慈しみ・正直の神として世の中の人々が敬うことになりました。
(石の像)
 さて、ここ居守の地では、道真公が言われた3年3ヵ月後海辺を掘ると大きな人の形をした石が出てきました。その時既に道真公はお亡くなりになられていました。地元の人たちは「これは道真さまの分身でずっとここに居て守って下さったのだ!」と更にお守りいただくためにその石を天神山に埋めました。
 それから、道真が亡くなった171年後の寅年のこと、村の人たちが天神山を開墾していた時、あの大きな人の形をした石が出てきました。村の人たちは、立派な人物として菅原道真の伝説を語り次いでいたのでその石を祠(ほこら)の中で篤くお祀りをしました。
 徳山藩三代 毛利元次が、漁師たちが網を敷いて道真公をもてなし慰めた話、道真公が居て守ってきた話、石の像の話を聞き感動し、道真公800年祭にあたる元禄16年(1703)この地に今のお社を建立したと伝えられています。
 ここ居守では、今でも12年に一度の寅年には、寅開帳というお祭りがあり、その石を拝むことができるといいます。居守神社は、防府天満宮と同じく学問の神様として菅原道真公を御祀りしているので、受験時期には参拝者が多いそうです。
 また、天皇家を誠を尽くして支え、和歌など日本独自の文化を深めたということで、日本の護り神としても有名で全国にたくさんの神社があります。(おしまい)

nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感