冠天満宮 [社会]
光市戸仲にある冠天満宮(天満宮と付くということは、菅原道真公をお祀り)に引越しのご挨拶に!
以下は由来の看板より転載。
私が生まれ育った周南市の居守天満宮の前にここに立ち寄られたご様子。居守では賜る物は無かったが「居て守る」というお言葉のみ頂戴。菅原公の死後三年後に人型の石像が出土。こちらは死後30年後とかなり経過するも影響力は絶大だ。お社も立派で地元の人々の崇敬の思いを感じとれる。この地域が発展したのも、そうした助け合いの精神もあるのだろう。今後益々発展しますように!これから私30年ぐらいは住むことになるので、どうぞよろしくお守り下さい。おみくじを引いたら「大吉」仕事大事と励みなさい!…と。
御鎮座 承平5年(935)4月23日道真公は学者の家系で幼少より学問に秀で長じて学徳高く文章博士となられ、宇多天皇の御信任篤く右大臣に任ぜられたが、藤原氏のざん言により大宰権師に左遷された。筑紫へ下向の砌(みぎり)風波をさけて船を当地の浦に寄せられ神太夫という者出合いわが家にお供つかまつり厚くもてなした。一両日御滞在ののち日和も順風となり、御出船の折名残を惜しまれ、召されたる御冠を神太夫に与えられた。そして、二人の息子太郎次・勘之介に松本・梅本の氏を賜った。その後三十数年を経て、承平4年10月7日の夜より三夜にわたって太郎次に夢中の御宣託があり、「東の山の梅の古木に今宵のうちに花を開かしめん、その地に社を建て冠を神体として祭るべし」と。太郎次隣家の人々と語らい尋ね見れば、果たして梅花咲き満ちて春のようであった。この瑞祥を見て、いよいよ神勅なることを思い、承平5年4月23日神祠を営み、梅花を見た10月10日を祭日と定め氏神として崇め奉った。神社の後方の冠石は、この時の冠を収め奉った所として伝えられる。年月を経て社頭荒廃し、この地の領主光井兵庫助源兼種崇敬の念篤く、天文18年(1549)3月6日社殿を再建し、爾来数度の造営を経て、平成4年(1992)12月奉賛会により社殿・参集殿が再建された。創建当時は光井天神宮と称していたが、のち冠天満宮となり、明治6年宮号停止によって菅原神社と改め、昭和5年9月2日郷社に列せられ、昭和50年10月1日再び冠天満宮に復した。近郷の人々の尊崇の念篤く、特に「学問の神」として広く敬仰されている。
東吹かは 匂いおこせよ 梅の花 あるしなしとて 春な忘れそ (濁点を使わない時代を踏襲した石碑)