徳山 [歴史]
私は山口県周南市(旧 徳山市)に住んでいる。
徳山の風景はこちら
奥田民生のライブに昨年行った(周南市文化会館にて)が、彼曰く・・・「周南?徳山でしょう?」と。
その徳山に住んで昨日、衝撃的な事実を知ることとなった・・・
フリーペーパー「月刊まるごと周南vol.21」を何気なく読んでいて知った歴史の真実!
ここ、徳山藩は「三本の矢」で知られる毛利元就のひ孫 就隆が初代藩主である!
実はその父親 輝元が家臣の美しい嫁さんを家臣(杉 元宣)の留守の間に奪ってしまったのだという事実。
家臣である杉 元宣は九州でこの事態を知り、怒って急いで帰ろうとしたが輝元の叔父 小早川隆景(元就の三本の矢に出てくる息子)の手によって討ち果たされてしまった。しかも・・・表向きには船が沈んで溺死したことになっているという・・・。陰謀(歴史)というのは恐ろしい!所詮勝った者の歴史に書き換えられるのだ!しかも!討ち果たされた場所が私が住んでいる地名なのだ!
恐らく怒り心頭の元宣は九州から陸路を選ぶより、海路の方が早いと判断し船で徳山に向かったのだろう。そしてうちの近くの浜辺で情報を先取りしていた(スパイがいたということになるが)三本の矢の主人公 小早川隆景(または家臣)が待ち構えて水際で斬首に・・・。
知らなかった!
住んでいる近くの海岸で悲劇があったことなど・・・。
殺された元宣の霊が杉家の菩提寺に夜ごと白馬にまたがって出没したという・・・。
なんとこの寺の門は昭和の初めまで約300年間以上この供養のため「あかずの門」だったとか。
しかも徳山藩初代藩主就隆は輝元と奪った元宣の妻に出来た子どもであるという事実!
なんと2代萩藩主「秀就」も同じく奪った妻の子どもらしい!
なんだかなぁ・・・
今も昔も人間そんなに進歩していないのかなぁ?
まぁ殺さないだけ進歩したのかな?
地元では「毛利さま」といろんな場面で藩主の歴史はあがめられるが・・・そんな藩主の誕生秘話を知ると大したことないな!と思ってしまった・・・。
お殿様ってそんなに偉くないもんだな!
逆に傲慢で物欲・性欲・征服欲・名誉欲のかたまりだったのかも・・・
近くの海岸からの風景
日曜に丑?うなぎ? [歴史]
本日は土用の丑の日だそうな。
この日に「うなぎ」を食べる習慣がいつからか始まったそうな。
私は仕事柄この一件について調べてみた。
「土用とは何?」
「丑の日?」
「丑とうなぎの関係は?」
私が小学生なら「今日は日曜日なのになんで土曜なの?」
「牛の日なのに何故、うなぎなの?」という素朴な疑問を持っただろう・・・実はアラフォー間近になってもこの疑問は持ち続けていた。重い腰を上げてやっと調べた。
◆古代中国の自然哲学「陰陽五行説」の万物は、木・火・土・金・水の5種類の元素から成るという説の内、土は植物の芽が地中から発芽する様子から、万物を育成・保護する性質を表し『季節の変わり目』の象徴。土用とはその季節の終わりの約十八日間のこと。その間で日の十二支が丑である日のことを指す。
◆江戸時代、讃岐出身のあの平賀源内がうなぎ屋から相談を受けて発案。「丑の日に『う』のつく物を食べるとバテない」という民間伝承からヒントを得たらしい。うなぎにはビタミンBが豊富に含まれ、夏バテや食欲減退防止の効果が期待できるから結果オーライだったのかな?。今でいうバレンタインにチョコみたいな話かな?
まぁ騙されたと思って今日この日にうなぎを食べてみると何か歴史のロマンとか感じるのかな?
人間というより生きものは「食」が全ての根本だから、うなぎのような精のつくものを食べるのは季節の変わり目に体調管理のためにも実はいいのかもしれない。
「物事は全て結果オーライ!」
うなぎの霊のような雲(死んでくれたうなぎさん!ありがとう!)
人は二度死ぬ [歴史]
またしても偶然の一致から記事を書かせていただきます。昨日のブログのある方へのコメントとして「人は二度死ぬ」ことを書きました。そして本日メールマガジンをチェックしたところ、その記事の中に「人は二度死ぬ」というタイトルと内容があり、驚きました
吉田松陰先生の歴史に学び、ああ人は二度死ぬんだと思ったばかりだったのです。一度目は肉体の死(安政6年10月27日、陽暦1859年11月21日処刑される)、その数年後志士たちが維新に向け動き始めるのです。松下村塾の門下生第一号の久坂玄瑞は17歳で入門、20歳の時に松陰先生の死、その後25歳で禁門の変で自刃。久坂玄瑞にとってはそこで松陰先生と共に死を迎えることとなるのでしょう。
しかし、松陰先生死後約150年経つ今も「吉田松陰」は我々の中に脈々と生きています。(私の中では復活したという方が良いのですが)私が死ぬ時に私の中の吉田松陰も死ぬのでしょう。ということは彼はまだまだ生き続けるのです。
魂や残した言葉は永遠のような氣がいたします。
話は変りますが、私の祖父母4人はもう亡くなっています。しかし、ふとした時に思い出したりします。まだまだ生きているのです。思い出す度に何か勇気や応援のメッセージをもらうような氣もします。永遠につながる命や魂。
昨日訪れた松陰先生のお墓には「二十一回猛士墓」と刻まれていました。受講したセミナーは第二十一回・・・というタイトル。主催者側も閉会の挨拶の際、偶然とおっしゃっておられました。初めて参加した私にとっては決して偶然ではなかった。
歴史体験~吉田松陰 [歴史]
維新胎動の地、松下村塾があった萩に於いて2泊3日の歴史体験セミナーに参加させていただきました。幕末から明治維新の時代から帰ってきた浦島太郎のような状態です。研修の内容は以下の通りでした。
テーマ『時代の先覚者・吉田松陰~維新の道をひらいた松下村塾』
- 明治維新と吉田松陰(下田踏海、東北遊歴、佐久間象山との出会い)
- 吉田松陰と松下村塾(久坂玄瑞、高杉晋作との書簡)
- 萩における吉田松陰、高杉晋作、久坂玄瑞
- 松陰の言葉をしのぶ
- 女台場見学~男なら
- 吉田松陰の母、杉瀧子に学ぶ~妹千代への手紙から
- 孝明天皇の祈りと吉田松陰
- 久坂玄瑞生誕地、高杉晋作生誕地、野山獄岩倉獄、吉田松陰生誕地、松下村塾、松陰幽囚の旧宅、松陰神社参拝
- 吉田松陰の尊皇思想(黙霖との往復書簡)
- 萩城跡見学
- 前原一誠 留魂の心(萩の義挙)
- 和歌創作
地元でありながら知らないことばかりで恥ずかしくなりました。非常に奥深くまで掘り下げた内容だったので大変勉強になりました。また本物に触れることも出来、なんだか遺伝子が目覚めたような氣もします。一級品の資料をいただいたので、これから一年吉田松陰について学んでいこうと感じました。
吉田松陰から久坂玄瑞への手紙から、現代の私に・・・己の立場で何を為さんとするのかを問われた氣がいたします。研修の中で偶然の一致をいくつも経験しました。自宅に帰ると違うところから講演会の案内がありそのテーマがなんと『吉田松陰』またしても偶然の一致。やはり今の私に学べというメッセージなのでしょうね。
八つの耳の王子の話 [歴史]
今から約千四百年前、日本の国は大和の国(近畿地方)を治める天皇を中心に段々と開けていきました。その大和時代といわれるころのことです。用明天皇の子どもに聖徳太子というきだてのやさしい、かしこい王子がいました。
太子が六つのときです。
太子が他の王子たちと遊んでいるうちに、とっくみあいのケンカになりました。「えい、また、ケンカをしておるか!」おとうさまの天皇はおこってこらしめるために、むちを持って出て行きました。「わぁ、たいへん、たいへん。」他の王子たちは、あわてて逃げ出しました。
ところが、太子だけは逃げません。それどころか、天皇の前にひざまずいて頭を下げました。「これ、太子。お前は、なぜ逃げぬ? どうして頭をたれておる?ケンカをしかけたのは、お前か。」天皇が尋ねました。
「いいえ。ケンカはわたくしがしかけたのではありません。なぐられたので、なぐりかえしただけです。でも、みんなと同じように、逃げようと思えば逃げられますが、いくら逃げても、天の上や地の底までは逃げれません。いつかはつかまってしまいます。それにケンカをしたのですから、ムチで打たれても仕方がないと思います。」
「ふうむ。なんと、正直な子じゃろう。いや感心、感心。」天皇は太子の素直な言葉にしかるどころか、反対にほめてしまいました。
太子が八つになった時のことです。日本中を驚かす大変なことが起こりました。関東地方に住んでいて、たいそう勢いの強いエゾの人たちが天皇の言いつけに従わずに背き始めたのです。「ふとどきなエゾめ。すぐさま、退治してしまえ。」天皇は家来たちに言いつけましたが、その前に皆の考えを聞こうと、家来たちを集めて尋ねました。すると皆と一緒に、話を聞いていた太子もそばにいたので、「これ、太子。お前の考えはどうじゃ?話してみよ。」と天皇は太子に言いました。
「はい。わたくしは、まだ子どもですので、そのような難しいことはよくわかりません。けれど、戦いとなると、必ず人がケガをしたり、殺されることでしょう。エゾといっても、同じ日本の国に住んでいる人たちなのですから、出きることなら、そのかしらを呼んで、よく相談してみたらいかがでしょう。」太子は思っていることを答えました。
天皇や家来たちは、太子のやさしい心、皆仲良くしようという平和への願いにつくづく胸を打たれました。そして太子の言う通り戦いよりも、まず、相談をしようとエゾの頭を呼んでいろいろと話し合いを進めました。
やがて、太子が十九歳になった時、天皇の仕事を助けて政治を行うことになりました。それにはまず、大勢の人の言うことを聞いて、それを元にすることだと考えて毎日、朝早くから役所に出かけました。すると、早速、一人の人が太子の所へ来て、いろいろと困ったことを訴えました。ところが、その後から、続いて二人、三人と続けざまに八人の人がやってきました。
「太子さま。まず、わたくしの話をお聞き下さいませ。」
「いえ、太子さま、私の方が先でございます。実は太子さま」とみんなが我先に自分の言いたいことをいっぺんにしゃべりたてました。がやがや、わやわや、何の話か、聞き取れないほどの騒がしさです。けれど太子は少しもいやな顔をしません。それどころか、八人の話を全部聞き終えると、「うむ。よくわかった。では、あなたはこうしなさい。」「あなたは、これこれのことをしなさい。」とてきぱきと訴えに答えてあげました。これには八人の人はみんなびっくりしました。「おどろいたお方だ。八人の話をいっぺんに聞くとは、とても人間技では出来ない。太子さまは頭がよいだけでなく、八つの耳を持っていらっしゃる。」とすっかり感心してしまいました。そして、このことがあってから、太子のことを八つの耳のある八耳王子と呼んで、いよいよ うやまうようになりました。
こうして、八耳王子の聖徳太子は、それからも、いろいろとすぐれた政治の働きをしました。聖徳太子は、中国から伝わった仏教を広め、盛んにし、また、天皇を中心にした政治を行って日本国内をしっかりとまとめました。さらに、進んで外国と交わって、外国の良いところを、どしどし取り入れました。日のいずる国『日本』という国の名前は、この頃から使われたと言われています。(おしまい)
この話を読んで、聖徳太子は8ヶ国語を話せたのではないかと思うのですが、どうでしょう・・・正倉院にはシルクロードを伝っていろいろな宝物が持ち込まれていますが、様々な民族の人々が日本に渡ってきたのではないでしょうか?
回天記念館 [歴史]
この夏、山口県周南市大津島(JR徳山駅から徒歩で徳山港へ。そこからフェリーで約40分)にある回天記念館(水曜日年末年始休館)に行きました。せっかくなので、おすすめのポイントなどを紹介します。本日(9月16日)より上映される映画「出口のない海」(人間魚雷回天をテーマ)が公開されると拝観者も増えると予想されるからです。
回天記念館に行く途中に養浩館(資料館)があります、回天記念館拝観後行かれた方がより理解が深まります。
記念館に入る道には回天搭乗員としてなくなられた方々のお名前が刻まれた石碑が並んでいます。ここはお墓と同じです。毎年慰霊際があり、戦友たちが足を運ばれるそうです。出身県とお名前が刻まれているので、自分の県を探すと感じるものも多いと思います。記念館に一番近い石碑には回天を考案した青年士官、黒木大尉、仁科(にしな)中尉のお名前があります。
入館料300円を払い、ガイドさんにいろいろと質問すると丁寧に答えてくれます。館内の壁面に書かれている歴史解説を読むと開戦に至るまでから終戦まで時代の背景を知ることができます。
視聴覚室では2本のビデオ(各25分)が分かりやすく回天と搭乗員の心情などをまとめているのでこれを見てから遺書など拝見されるのがお薦めです。「時代の証人」と「回天物語」の2本があるが、時間的に二本とも見れないという場合、私のお薦めは「回天物語」です。
※「回天物語」に出ておられる元記念館館長さんが、養浩館の館長として今も時代の語り部としてご活躍をされておられます。ビデオを見て後から養浩館に行って生のお話を聞くことが出来ます。旧海軍軍人で同期の多くの方が回天作戦で亡くなられておられます。
研修室には元女子挺身隊長から見た「回天紙芝居」や参考資料があるので、ガイドさんに聞くと見せてもらえると思います。
予備知識を得た上で、遺書や遺影などを見るのが良いと思います。
館内の柱にも遺書が刻みこまれています。
回天作戦による戦没搭乗員のお写真が戦没年月日順に並んでいます。
(私なんかは、子供と同じ誕生日に戦死された方を発見しましたが、熱いものが込み上げてきました。また、終戦後にお二方が自決されておられますが、ガイドさんにお聞きすると「今の私たちからすると想像もできないと思いますが、お一方は回天の教官の方で教え子が亡くなり、自分が生き残ることが耐えられなかったのでしょう。」※後日、その方の遺書を本で読んだが、まさにその通りの遺書でした。)
記念館の外には、回天のレプリカ、実際に訓練した海が一望できる場所、墓標、長島茂雄氏(元巨人軍)が寄贈した石碑、遺書が刻み込まれた平和の鐘などがあります。
今度、出口のない海の撮影で使用された回天内部が記念館に寄贈されるとのことです。内部はどのようなものだったのか?展示されれば私ももう一度行ってみたいと思います。
養浩館(第二資料館)では遺影、遺品、ビデオの上映や御土産物(回天の本や手ぬぐいなど)などがあります。館長さんがおられたら、当時の貴重なお話を聞くことができます。
途中の小学校の運動場(元々兵舎があった場所)の中に当時の倉庫や研究室跡などがあります。
記念館から徒歩15分ぐらいで、回天発射基地跡があります。ここから南方へ向けて回天を載せた潜水艦で出航していかれました。トンネル内に回天を載せたレール跡もあり、トンネル内にパネル展示もあります。
何か今でも私たちに訴えかけてくれているような気がします。
食材持込となりますが、バンガロー(周南市が運営)に宿泊(予約要)することもできますし、大津島の魅力に取り付かれ民宿を始めた方もおられ(一日一組限定)ます。そこからは発射基地跡からの瀬戸内海が一望できるそうで、夕日が海に沈むのも見ることもできそうです。
※帰りのフェリーの時間との闘いとなりますが、もう一度ゆっくり行きたいなぁと思っています。
男系と女系 [歴史]
親王さまお誕生おめでとうございます。
日本はやはり神の国なのではないだろうかと思ってしまう。
秋篠宮さまと紀子さまは、コウノトリの研究にも関心を寄せておられ、
(日本では数十年前に絶滅し、今は外国産を日本で繁殖させることを兵庫県で行っている)
まさに「幸の鳥」を運んで下さったのではないだろうか。
日本ではこの春、皇室典範改正が国会で議論されていた。
男系か女系かこの問題は国民には分かりにくいとされる。
今の皇室典範でいくと・・・男子のみ皇位継承となり、当時のままでは数十年後には、皇位継承者がいなくなる可能性がある。だから改正をして第一子(愛子さま)に継承できるようにというものだった。女性天皇でも良いではないかというのが街中の声である。過去にも8人の女性天皇がおられた。確かに目先だけを見るとなるほどというものである。
しかし、大切なことは愛子さまの次の世代には女系天皇が誕生するということである。 これは過去の日本の歴史の中ではなかったことである。
日本の皇室の歴史は万世一系、男系だったことが忘れられているのである。
例えば愛子さまがご結婚をされると相手の男性は民間人から来られる。生まれたお子様は歴史上初めて女系(民間男性の血を継ぐ継承者)となる。この時点で世界で唯一続く3,000年の歴史が途絶えるのである。
この議論の最中に紀子さまご懐妊のニュースが全国を駆け巡ったのである。
この時、神風が吹いたと思った。女系天皇を容認する議論が先送りされた。
現代の人の知恵で考えた議論は今日、長く続く歴史の風で吹き消されたのである。