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居守天満宮の由来ーその2 [社会]

前回の補足です~

漁師が付き人に記念を残して下さいとお願いしたら

「この休み場の跡を3年3ヶ月たったら掘って見よ」といわれた。

とうとうその日が来たので、掘ってみたらそこには顔形の書いてある丸い石が出て来た。

漁師は喜んで石を自分の家に保管したが、菅公が天神様に祀られたという話を聞いて、ある所に石を埋めたという話です。参道の入り口にある大きな松の木(今は松くい虫被害に遭い伐採)は、菅公の乗って来られた船をつないだので「天神松」と名づけられている。お休みになった後に石の鳥居が建てられたが、現在は山側に移転されている。その後、お休み跡地にも鳥居が新たに設置されています。

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居守天満宮の由来 [社会]

昨晩夜通し、父が残した史料を元に、12年に一度のお祭りのチラシの文面を作成していた。50年生きて来て地元の事で知らない事も多数あり。滝があるのか?などなど。郷土の歴史に触れるのが楽しいと思った瞬間でした。時間を忘れて千年前にタイムスリップしておりました。
延喜元年(西暦901年)醍醐天皇の右大臣菅原道真公が藤原時平の讒奏(ざんそう)により大宰府に左遷され、海路九州へ下る途中、暴風に遭遇され避難をされたのがこの海岸でした。一漁夫がお迎えをしましたが、敷物が無く、舟の網を持ち寄り円座を作り、その境遇に同情し一行を心から親切にお世話したところから、網敷(あみしき)天神とも呼ぶようになったと言われています。
道真公は、西の山に滝あり(松滝)、浦あり(桜浦)、沖の干潟あり(梅ケ実)、磯が尻など風光明媚な景観を眺められ、数日後再び船出の際、名残惜しみて「我筑紫には身は隠れるとも魂は居たり守らん」と約せ給いしより、この地は「居守(いもり)」と名付けられました。
承保元年(西暦1074年)寅年、磯の崎にて石像「神像」が出現し、この浦に住む山伏の夢の中に「吾は菅神なり、神魂石像となりて久しく地中に居す。ここに祭るに於いては、一天泰平、五穀成就、万民安穏を得せしむべし」と告げられ、祠を造り、篤く礼拝し子孫へとお祀りを継承してきました。
歳月は流れて元禄16年(西暦1703年)徳山藩三代毛利元次公が、この故事を聞き感動され、道真公の八百年祭にこの地にお社を建立して、遺徳を顕彰されたのが現在の居守天満宮の始まりで、誠に由緒ある神社であります。
「神像」寅年出現の由来をとり、廻る寅年毎お祭りをし、今に至るまで「御開帳祭」が斎行されています。爾来約三百年に至り郷土の鎮守神として地区住民の崇敬の念が厚く、この神社信仰により、火災病難不祥をのがれ、家内安全諸願成就、その霊験あらたかなる神社として大きな役割を果たしてきました。
古くから地区住民の心の拠り所として仰いできた由緒ある居守天満宮をこれからも皆様方のご理解とご協力により、私たちの偉大な先祖の遺徳顕彰の機運醸成に、また長い歴史と伝統のある「寅開帳祭」を次の世代に残すためにも、何とぞ御賛同御協力の程よろしくお願い申し上げます。
令和4年(西暦2022年) 壬寅年(みずえのとら) 吉日
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